こちらには JR宇都宮線 上野駅から約60分、東武日光線 浅草駅から約60分で栗橋駅につきます。
旧栗橋駅の写真も残してあります。よろしければのぞいてください
2000.7.20撮影
水飲み場
アーチ型跨線橋
東武線栗橋駅駅舎
栗橋駅は東北本線の開業時からある古い駅で、対向式+島式という旧式の配線がなされています。
ただし、ここでは蓮田駅や白岡駅とは反対側に駅本屋があったため、対向式ホームも反対になっています。
旧来の駅舎は東口のみの狭いものでしたが、平成13年に橋上の新駅舎が完成しました。この改築は、
西口も開設やこれによる駅舎の東西自由通路化、駅コンコースに自治体のサービスコーナーが設置されるなど、
地域住民の利便性向上に大きな影響を与えています。駅東口は宿場町の面影を残しており、駅前ぎりぎりまで
連なる商店街でやや手狭な印象です。一方西口は開設から間もないこともあって、駐車場と住宅地が不規則に
広がっており、いまだ造成地なども目につく状況です。
手狭な栗橋駅東口
北葛飾郡栗橋町
34,055人
明治18年7月16日
所在地
一日の乗降客数
開業日
和風の造形が印象的な栗橋駅西口
栗橋町に残る静御前墓所。境内には墓石・歌碑・義経招魂碑などがあり、わが国でもめずらしい静桜が植えられている。文治5年9月15日(1189年)に亡くなった静御前を偲び、毎年命日には墓前祭には法要が執り行われる。
静御前は、白拍子・しらびょうしと言われる美しい舞姫であったらしく、源義経の寵愛を受けた。義経が奥州下向ののち、そのあとを慕い奥州に向かう途中義経の討ち死を知り、悲しみのあまり栗橋町伊坂の地で亡くなった。侍女琴柱は遺骸を当時この地にあった高柳寺(現・光了寺)に葬り、1本の杉の木を植えその印とする。弘化3年5月(1846年)利根川氾濫により枯れてしまい、この時、杉の変わりに銀杏を植えたという。「静女之墳」は、静御前の墓に印がないため、中川飛騨守忠英が、亨和3年5月(1803年)に建てたものと考えられている。
現在、光了寺は、茨城県古河市中田にあるが、この寺には、静の遺品の舞衣(まいぎぬ)の一部や、鏡、守本尊などが残されているという。
静御前の没地であるといわれる場所は栗橋を含め、靜の母親の出身地である淡路島、福島県郡山市、山形県南陽、長野県美朝村など全国7ヶ所に及ぶ。栗橋町は、町村合併以前「北葛飾郡靜村」と「栗橋」とに分かれていた。栗橋町伊坂が、合併以前は靜村とよばれ、静御前が没した場所を村名に冠したということなどから、栗橋没地説は信憑性が高いと言われている。
静御前の墓
静御前が義経を追って奥州に向かう途中、義経の
討死にを知り、涙にくれた静は、一本の桜を野沢の地に植え、義経の菩堤を弔ったのが静桜の名の起こりといわれています。
現在国内には、原木を接ぎ木したものが、僅かに栗橋町の静御前の墓所と平泉の数箇所にあるのみで、当町のものは昭和54年頃、その存在を知った地元有志の熱望により(財)日本花の会から特別に寄贈されたものです。
静桜は、里桜の一種といわれていますが、ソメイヨシノのような一般の桜に比べ、花期の訪れが遅く、4月中頃から開花します。花は、5枚の花弁の中に、旗弁(はたべん)といって、おしべが花びらのように変化したものが混じる特殊な咲き方をします。
このことから、開花した様子は、一見、八重と一重が混じったように見え、他の桜とは趣を異にした風情を見せています。
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